日向進攻 ( ひゅうがしんこう)

宗麟の理想国家建設の破綻

 天正6年(1578)、大友氏が2度にわたって日向で行った合戦。4月、 松尾城 (延岡市)に 拠(よ)る 土持(つちもち)氏 を破って臼杵(日向)地方を征服。11月、南下して高城 (宮崎県 児湯(こゆ)郡木城町)で島津氏と戦い、大敗後、 耳川(みみかわ)(美々津川)で敗れて豊後に退却した。この日向進攻の目的は、 大友 宗麟(そうりん) が日向の地にキリスト教的理想国家を建設することにあったといわれる。 高城 耳川合戦 以後、大友氏は没落の一途をたどることになる。
〈土持氏征伐〉
 天正6年正月、 大友 義統(よしむね) は父宗麟の命を受けて日向土持氏を討伐することになる。『 大友家文書録 』によれば、宗麟の旗下にあった 土持 親成(ちかなり) が、島津氏の 伊東 義祐(よしすけ) 領 併呑(へいどん)を機に大友氏に背いたことが出兵の理由とされている。3月、義統は3万の大軍を率いて 府内 (大分市)上野 館(やかた)を進発。本営を 宇目酒利(うめさかり)(宇目町)に置き、 佐伯宗天(さいきそうてん) には屋峰口から、 志賀 親教(ちかのり) には 梓口(あずさぐち)から進攻させ、4月、日向に入る。土持親成は島津義久に救援を求めたが得られず(『 薩藩旧記雑録(さっぱんきゅうきざつろく) 後編』)、同月上旬、松尾城は陥落。親成は捕えられ、豊後に護送ののち浦辺において自殺させられた。義統は佐伯宗天に命じて松尾城に留め、土持旧領を監視させて豊後に 凱旋(がいせん)した。
〈宗麟の日向出陣〉
 土持氏討伐は島津氏との大戦の序曲であった。義統は土持氏討伐の直後、家臣に先々の日向出兵は長陣となること、その時期は初秋であることを告げた。家臣は日向進攻に反対したが、 田原 紹忍(しょうにん)( 親賢(ちかかた))が賛成、出兵に踏み切る。宗麟は義統を 野津 (野津町)に駐屯させて物資の調達に当たらせ、自らは家臣を日向に先発させて、進攻先の寺社を焼き払わせた。宗麟の日向出陣は予定よりやや遅れて9月となる。この進発の模様をフロイスは次のように伝えている。新夫人の ジュリア とともに出発、その乗船には 白緞子(しろどんす)に赤い十字架をつけ、 金繍(きんしゅう)を施した旗を翻し、また、多数の十字架の軍旗を並べた(『 耶蘇(やそ)会士日本通信 豊後篇』下)。従う将士300。日向に到着した宗麟は本営 務志賀(むしか)(延岡市無鹿)に入り教会と住院の建設に着手。完成までの間、寒気をいとわず仮設の教会に通って祈祷につとめたという(前掲書)。大友軍主力の指揮官は田原親賢(紹忍)、4万3千の軍勢を率いて陸路を南下。野津にある義統は キリスト教 信仰に熱中、家臣から 諌言(かんげん)を受ける。日向に進攻した大友軍は、10月、佐伯宗天 田北鎮周(たぎたしげかね) を先鋒として高城を攻撃する。高城では島津軍の将 山田新介( 有信(ありのぶ)) が500の手勢で守備したが、合戦に備えて 島津 家久(いえひさ) 軍3,000が加わる。 外拵(そとごしらえ)の破壊、鉄砲戦と激しい攻防がつづくが、大友軍は高城を攻めあぐみ、同月下旬には城外に垣を結いめぐらして通行を遮断し(『薩藩旧記雑録後編』)、持久戦に入る。一方、 島津 義久(よしひさ) は高城救援のため、鹿児島を進発。兵4,000を率いて、11月初め、佐土原に入り、義弘は飯野(えびの市)を発して財部城に兵を進めた。連日の風雨の中で軍議が繰り返される。大友軍は田原親賢を主将とする主力軍とは別に攻撃軍を編成する。すなわち、志賀親教(直入) 志賀 鑑隆(あきたか) (直入) 朽網宗歴(くたみそうれき) (直入) 一万田宗慶(いちまんだそうけい) (大野)の南郡諸将を別働軍として肥後に派遣し、肥後から日向を攻撃する 搦手(からめて)作戦を企てている(『大友家文書録』)。しかし、この 南郡(なんぐん)衆 が11月初めには、 相良義陽(さがらよしてる(ひ)) と合流するという義統の作戦にもかかわらず(「 相良家文書 」)、第1次高城攻撃戦に間に合わぬばかりでなく、なお1か月以上も肥後に滞留している有様であった(「 志賀文書 」)。大友家に対する離反行動と考えられている(『増補訂正編年大友史料』24)。
〈高城 耳川の敗戦〉
 大友軍内では軍議がまとまらないまま、城下小丸川を渡河。11月12日、高城を中心として両軍が激突。島津軍は前面から義弘が、側面から征久らが、城内から家久が大友軍を攻撃したため、進退するところを失い、深渕に入って溺死、あるいは討ち取られる。高城の戦いで壊滅的な打撃を受けた大友軍は敗走するが、耳川で討たれたり溺死する者が多く、4,000余が戦死した。この勝敗について、宣教師は、大友方の敗因は総指揮官田原親賢の油断と無識、敵を 軽蔑(けいべつ)し警備を怠ったことにある。島津方の勝因は、高城の陥落が全領土の喪失であるとし、領国あげて戦闘態勢をとったこと、伏兵や誘導など巧妙な作戦を用いたことにあると述べている(『耶蘇会士日本通信豊後篇』下)。高城 耳川の敗戦は務志賀の本営にいる宗麟に報告された。誇大な情報に惑わされた宗麟は、宣教師の進言にも耳を貸さず豊後に退却。宗麟の日向におけるキリスト教的理想王国の建設は高城 耳川の敗戦によって崩れてしまう。敗戦後、国外では 龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ) 、 秋月種実(あきづきたねざね) らが大友氏に反し、のち国内では 田北 紹鉄(じょうてつ) 田原 親貫(ちかつら) が謀反を起こして、大友氏の領国統治が大きく動揺することになる。
 参考文献 渡辺澄夫『増訂豊後大友氏の研究』
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