日田金 ( ひたがね)

九州の銀行

〈日田金とは〉
 江戸時代中期以降、代官 郡代のいる日田の 掛屋(かけや) 商人その他の豪商が、 天領 内外の商人 庄屋 農民や九州の諸大名に年1割2分〜1割8分の高利で貸し付けたお金すなわち高利貸資本である。そのお金の中には、代官役所から預かった百姓助合石代銀( 助合穀(たすけあいこく) 銀) 御年貢銀 御用金などの公金も含まれていた。ところが、この公金こそ自己資本とは峻別さるべき日田金そのものであるとする藤野保のような学者がいる。たしかに 博多屋 広瀬家 のように、その貸付資本を助合穀銀 御年貢銀 御用金等の公金に依存する度合いの強い掛屋商人もいる。しかし、それらの公金を預かるためには、抵当として土地 家屋などの固定資産が要求されるので自己資本は不可欠である。大名への貸付金が公金のみからなるものであれば、永納は不可能のはずである。
〈日田金を借りた大名と日田金の借用高〉
 遠藤正男の研究(『日本近世商業資本発達史論』昭和12年 第二部「日田金の研究」)によれば、日田商人の九州諸藩への貸付金の概算は次の通りである。 日田郡代 242,000両、 小倉藩 207,000両、久留米藩96,000両、福岡藩102,000両、 森藩 41,000両、 千束(ちづか)藩71,200両、 臼杵藩 24,000両、柳川藩6,800両、大村藩9,000両、 杵築藩 7,800両、 府内藩 19,600両、対馬藩26,000両、 島原藩 4,500両、 延岡藩 9,600両、蓮池藩6,400両、秋月藩126,000両、岡藩1,900両等で約100万両となっている。そして日田金の総計を約200万両とみて、その50%が大名貸しに投下されたという。なお、これは両 千原家 広瀬家 小倉藩 森藩に残存の古文書記録を調査したのみの結果であり、天保−慶応年間における貸借を差引計算したので、今後の研究によって相当の修正が加わるであろうと付言している。なお前記に記されてない藩で、千原家や広瀬家の資料の中に出てくる藩は中津 唐津 鹿島 日出等の諸藩である。
〈日田金の貸し元〉
 幕末に掛屋であった 丸屋千原家 博多屋広瀬家 ■ 山田家 三鍋屋(みつびきや) 森家 が主体である。その他、かつて掛屋を勤めたことのある升屋草野家 伊豫屋手島家 鍋屋森家、山田家の 山田作兵衛 山田為右衛門 、陣屋廻村庄屋で森藩の 御用達 千原欣右衛門 等がある。
〈日田金の預け主〉
 日田の掛屋商人等は、日田金を貸し付けると共に、日田金の元資となる預金を入手しなければ、貸し付けは続けられない。預け元の第一は、助合穀銀(利率6分) 年貢銀(無利足−1割2分) 御用金(無利子−3〜4分)等の公金を貸す代官役所、三河口郡代の元締 早川兵内 から広瀬家は借用している。九州諸藩相手の 講 である 融通講 掛金預り、多額の調達銀を永納させられた藩に対して窮状を訴えて其の藩から借金をすることのできる大名、広瀬久兵衛は福岡藩から無利息で借金した。千原家の別家、陣屋廻村庄屋千原欣右衛門は森藩の御用達をしていて、森藩に融資することが多かったのか、困窮状態におち入って体面を保つことができないので、300両を無利息で貸して欲しいと願い出ている。
 広瀬家が同じ掛屋の丸屋 鍋屋 京屋から融通してもらうような場合がある。
〈丸屋幸右衛門と森藩〉
 森藩は嘉永元年勝手方惣奉行 嶋宮内 元締 西野金助 有田代官 伊藤恕兵衛 今村三左衛門 の名で丸屋幸右衛門から350両の借用をした証文には、「月7朱の利息を加え来る11月20日限、米大豆時之相場を以て相渡すべく候」と書かれている。借用した350両を現金で返済するのでなく、 米 大豆 の現物で支払うというのである。
  千原幸右衛門 が森藩に対し金1,000両を融通上納(永納)した時、森藩は30人 扶持(ふち)を千原に与えることにした。これは米54石に相当する。藩は羽田村 諸留村 大庄屋 庄屋 小庄屋 組頭 百姓代に対し両村から54石を千原の差図に従って千原家に運び込むことを命じた。それに対する請書を差し出している。 年貢米 を丸屋に納めるというわけである。
〈掛屋は九州の銀行である〉
 掛屋は預金を受け入れて、これを諸大名や天領内外の庄屋や商人に貸付けた。嘉永2年11月、筑後小郡町の小田屋磯右衛門が 広瀬久兵衛 源兵衛から金50両を借用した証文が子孫の家に保存されている。480坪の居屋敷 40坪の 貫家(ぬきや) 28坪の酒蔵 24坪の瓦小屋が50両の抵当である。掛家は大坂との物資の交流には為替で取り引きした。これを利用して年貢銀を大坂御金蔵に納め現銀輸送を省略することも出来た。
 参考文献 藤野保編『九州と天領』
[首藤 助四郎]

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