豊後表 ( ぶんごおもて)

青莚と花莚

  七島藺(しっとうい) で織った畳 表(おもて)。独特の青みがあるところから古くは 青莚(あおむしろ)とよんだが、七島表、琉球表など呼称は多い。七島藺の漢名から 蓆(りっきゅうむしろ) と書くこともある。本県産のものを豊後表、豊後青表ともいう。昭和8年(1933)、 青莚移出商組合 は青莚を青表と改称。その後、県も名称を統一して大分青表を公的表示に用いた。
 藺草(丸藺)で織ったものは 備後(びんご)表、丸藺表などといい、かつては岡山 広島県を主産地とした。青表は備後表に比べると粗野な感じがするが、耐久性 吸湿性にすぐれ、一般家庭向きとして需要が多かった。
〈豊後の貧乏草〉
 江戸時代、青表は 杵築 日出(ひじ) 府内藩 などの 専売品 として厳しい統制下にあり、品質を維持していたが、廃藩後は粗製乱造の弊害があらわれた。また生産者が悪質な商人の被害をうけるなどの問題も生じた。このため県は明治17年(1884)、青莚業取締準則を公布、杵築町(杵築市)に取締会所を設け、品質の管理にあたった。
 青表は東国東 速見 西国東 大分郡が主産地で、農家の副業として織られたが、工産物の中では酒類、繊維製品につぐ重要物産であった。原料の七島藺は茎の断面が三角形をしているところから 角(かく)藺ともよばれる。5月ごろ田や畑に植え付け、7〜8月に刈り取る。これを木製の台に針金を張ったもので一本一本二つに裂き、天目で2、3日乾燥させる。雨にかけると変色するので天気を見定めて作業しなければならない。この作業は大変な労力を要するので、早朝から夜中にかけて一家総出であたった。干し上がった七島藺を夜なべ仕事や農閑期に手織機で畳表に織りあげ、10枚を1束として仲買人に売り渡した。
 価格は製品の質によって異なるが、市況にも大きく左右された。明治31年の例でみると、1束1円50銭、純利益10銭5厘である。植え付けから育成管理、刈り取り、乾燥、製織までの作業量は膨大なもので、しかも価格の変動が大きかったことから、七島藺は豊後の貧乏草とさえよばれた。しかし、農家にとって青表はすぐに現金化できることから収入源としては最も重要なものであった。
〈生産 流通の近代化〉
 生産量が増えるにしたがって栽培や製織技術が改良され、流通機構も整えられた。織機は手織りの 座(すわ)り 機(ばた)から腰掛式の足踏み手織機へ変わり、戦後は回転式足踏み織機 回転式半自動織機へと進んだ。織り方は横目織りを主としたが、生活様式の多様化に対応して 諸目表(もろめおもて) 目迫(めぜき)表 大目織(おおめおり)などが開発された。青表には細帯 太帯 背高 耳組の4種類あったが、細帯 太帯のいわゆる畳表が9割を占めた。細帯は縦糸が42本以上のもの、太帯は42本未満のものををいう。
 製品は大分 別府 亀川 豊岡 日出 杵築 安岐(あき) 武蔵 鶴川(国東町)など17か所の積み出し港にあった検査所で検査を受けた後移出された。移出先は九州各地から中国 四国 近畿 関東 東北 北陸とほぼ全国的であったが、関東 東北 北陸地方に根強い需要をもっていた。 日豊線 と 国東鉄道 の開通後は、杵築町(杵築市)が集荷、移出の中心地となり、 莚問屋 が集中した。
  花莚(はなむしろ) は乾燥した七島藺を染色して模様に織り込んだもので、敷物などに用いられる。明治17年ころから八坂村(杵築市)の 堀定一 らによって工夫され、20年ころには速見 東国東郡へ広まった。製品のほとんどがアメリカ ドイツ フランスなどへ輸出されていたが、量的には少なく、やがて清国(中国)製品に押され、振わなくなった。30年ころからは備後表も造られたが、大きな伸びはみなかった。
 大正末期からは七島藺の植え付けが増え、青表の生産量も急増した。昭和4年には64万束以上にも及び、戦前の最高を記録している。8年には杵築町に 大分県農業試験場七島藺試験地 が設けられ、七島藺の試験研究と技術改善にあたった。 太平洋戦争 に入ると諸物資の統制が強化され、青表も17年6月から 配給制 となった。また食糧増産の要請によって七島藺の栽培が激減、青表の生産も大きく減少した。
〈戦後〉
 戦後は経済の復興にともなって20年代の後半から青表の生産が増加した。県も七島藺試験地内の 大分県藺業指導所 で栽培から製織までの研究と指導にあたり、品質の管理に努めた。32年は青表の生産量が55万束を超え、全国生産量の8割を占めるまでになった。しかし、40年代に入ると再び減少を始めた。 高度成長 に伴う労働力の流出、 柑橘(かんきつ)栽培 への転向、兼業農家の増大などによって七島藺の栽培は大幅に減少、59年には50haを割った。また住宅建築様式の近代化、洋風化によって畳の部屋が減り、見た感じの良い備後表が好まれるなどの需要減も青表の生産を減退させた。さらにビニールマットの開発は大きな打撃を与えた。量産が可能で、加工し易く、価格の安いビニール製品は、畳表だけでなく、上敷き、柔道畳などにも使われている。
 参考文献 前田哲夫『豊後の七島い、その歴史を追って』
[河野 昭夫]

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