豊薩合戦 ( ほうさつかっせん)

南郡衆の大友家離反

 天正14年(1586)10月から翌15年3月まで、豊後に侵入した島津軍と大友軍の間で戦われた合戦。大友家臣の島津内応が相つぎ、 志賀 親次(ちかつぐ) (のち 親善(ちかよし) ) 佐伯惟定(さいきこれさだ) らの防戦が見られたが、 大友 宗麟(そうりん) 義統(よししげ) は独力で撃退できず、 豊臣秀吉 の出馬により、ようやく、豊後国内での終戦を迎えた。
〈島津氏の内応工作〉
 大友氏と島津氏の対戦は、日向 土持(つちもち)氏 征伐、 日向高城 耳川(みみかわ)合戦 の両度にわたって行われ、後者では、大友氏が決定的な打撃を受けて退却した。この後、九州西部地方では、 龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ) が大友旗下の武将を 膝下(しっか)におさめ、島津氏は肥後方面へ北上を開始して、大友領を 蚕食(さんしょく)しはじめた。 島津 義久(よしひさ) は龍造寺隆信を倒して九州西部の覇権をにぎり、肥後方面を攻略しながら豊後侵入を画策。一方、日向高千穂の 三田井親武(みたいちかたけ) らを誘引して日向方面からも豊後を窺う。島津氏は国内大友方武将に対して内応工作を行う。この対象とされたのは豊後国 南郡(なんぐん)衆 (大野 直入郡)である。 入田(にゅうた)郷 (竹田市)の 入田 義実(よしざね) に対して 所領安堵(しょりょうあんど)を条件に内応を勧め(『 上井覚兼(うわいかくけん)日記 』)、天正14年6月までには、義実は 岡城 主 志賀 親孝(ちかたか) を島津方に引き入れている(「 入田系図 」)。また、同郡 南山(なんざん)城 主 志賀 鑑隆(あきたか) ( 道雲(どううん) 、久住町)も内応。三重 市(いち)(三重町)の 麻生 紹和(しょうわ) に対して内応の盟約を結ばせる。対島津軍防備の 朝日ヶ岳(あさひがだけ)城 (宇目町)守将 柴田 紹安(しょうあん) も内応した。この外、 松牟礼(まつむれ)城 (直入町) 田北 鎮利(しげとし) 、 鳥屋(とや)城 (朝地町) 一万田宗拶(いちまんだそうさつ) および朽網氏も同様。南郡衆が島津氏に内応し、大友氏から離反したのは、義鑑 宗麟時の諸事件に原因する 怨念(おんねん)、宗麟の キリスト教 援助と受洗に対する反感、義統の無能と統率力の欠如によるとされている。天正14年10月、豊臣秀吉の命によって、九州平定のために豊後に向かった 仙石秀久(せんごくひでひさ) は、大友義統とともに宇佐郡へ出動した。このため、南郡には 朽網宗歴(くたみそうれき) 一万田 鑑実(あきざね) が残るだけという情報を得た島津義久は重ねて神意を問うた結果、同月下旬、豊後侵入を開始した。
〈島津軍の豊後侵入〉
  島津 義弘(よしひさ) は肥後口から、 島津 家久(いえひさ) は日向口から攻撃を開始する。肥後口の島津義弘は入田義実( 宗和(そうわ) )、志賀親孝( 道益(どうえき) )軍と合流。 片ヶ瀬(かたがせ)城 (竹田市)を手裏に入れ、 一万田城 (一万田氏、朝地町) 鎧ヶ岳(よろいがだけ)城 ( 戸次(べっき)氏 、大野町)を攻めて降伏させ、 朽網城 ( 朽網氏 、久住町)も落とす。10月下旬、 津賀牟礼(つがむれ)城 (入田氏の旧城、竹田市)の守将 戸次 統貞(むねさだ) を、策をめぐらせて下城させ、島津義弘が入城した。その後、義弘は 志賀 親守(ちかもり)( 道輝(どうき)) および 親次(ちかつぐ) の守備する岡城(竹田市)を攻撃。同城が天険の要害であるため攻めあぐみ、12月には朽網城に陣替えする(『 薩藩旧記雑録(さっぱんきゅうきざつろく) 後編』)。朽網城の島津義弘は軍兵を3方面に分け、主力を岡城、 新納忠元(にいろただもと) には玖珠郡、 新納 久時(ひさとき) には大分郡へ向かわせる。義弘は守備堅固の岡城攻撃を断念。翌15年正月、玖珠郡 野上 (九重町)へ転戦した。新納忠元と合流した主力軍は、玖珠郡の大友方将士の大半を降したが、 角牟礼(つのむれ)城 だけが 頑強()に抵抗した(前掲書)。大分郡に進んだ新納久時は 狭間鎮秀(はざましげひで) の巧妙な戦術によって敗退する(『 豊後国志(ぶんごこくし) 』)。日向口から豊後に入った島津家久は 柴田紹安(しばたしょうあん) が守る朝日ヶ岳城を戦わず落とし、三重郷 松尾城 (三重町)に入る。着陣早々、 栂牟礼城(とがむれじょう) (弥生町 佐伯市)の佐伯惟定に軍使を派遣して 和睦(わぼく)を勧められたが拒否され、頑強な抵抗に会う。家久は栂牟礼城作戦を行う一方、対緒方 臼杵方面作戦を展開した。 柏野(かしわの) 高尾 小牧塁(こまきのるい)(いずれも緒方町)は、島津軍の猛攻を支えきれずに降伏した。宗麟の守る 丹生島(にゅうじま)城 ( 臼杵城 )では、島津軍は城兵の必死の防戦に会い兵を返す。宗麟は 国崩(くにくずし)(大砲) を用いて島津軍を撃退したと伝えられている(『 大友家文書録 』)。11月中旬、家久は兵を進めて 梨尾(なしお)山 (大分市)に布陣、 利光宗魚(としみつそうぎょ) の守る 鶴ヶ(つるが)城 を攻撃、宗魚は戦死する。12月、鶴ヶ城救援のために赴いた大友義統 千石秀久(せんごくひでひさ) 長曽我部元親(ちょうそかべもとちか) 信親(のぶちか) 父子の大軍と 戸次(へつぎ)川原 で対戦、信親は戦死する。家久は勝利の後、 府内 (大分市)に入った。義統は 高崎城 、ついで豊前 龍王(りゅうおう)城 に退き、豊臣秀吉の不興を買った。
〈合戦の終息〉
 こうした島津軍の進撃に対して、大友軍の反撃も 熾烈し,れつ に行われる。中でも、佐伯惟定 志賀親次は、島津軍占領下にある南郡諸城の回復につとめ、 鶴崎(つるさき)城 主 吉岡 宗歓(そうかん) の妻 妙林尼(みょうりんに) は謀計をもって島津軍を撃退した(『豊後国志』)。のち、豊臣秀吉は佐伯惟定 志賀親次に、その奮戦を称えて感状を与えた。15年正月、豊臣秀吉は島津氏親征を決め、2月秀長を九州に向かわせた。これにより、玖珠郡野上にあった島津義弘は、3月、府内に入り、早急に豊後を撤退することを決定。 島津 歳久(としひさ) らは肥後路から、義弘は、すでに三重郷松尾城に引き上げていた家久とともに日向路から帰国することとした。3月中旬、島津軍は親次 惟定らの攻撃をかわしながら日向に引き上げた。
 参考文献 渡辺澄夫『増訂豊後大友氏の研究』 外山幹夫『大友宗麟』
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