森山遺跡 ( もりやまいせき)
犬丸川流域の平野を望む高地性集落は砦跡か
大分県北部における調査例によると、弥生時代前 中期の集落は、概して水田面との比高差20〜30mの台地上に立地し、後期以降はそれが1m前後の水田地帯の微高地上に立地している。中津地方でも近年発掘調査件数が増加しつつあるが、 宇佐平野 の 東上田遺跡 や台ノ原遺跡に匹敵するような同期の大規模な 集落遺跡 は未だ発見されていない。 山国川 左岸の台地上に立地する福岡県新吉富町中桑野遺跡がそれに類すると思われる程度である。将来、相原 永添 池永地区などの沖代平野を見下ろす台地上においてそのような集落遺跡が発見される可能性があるので、開発事業の進め方には特に注意を払う必要がある。
〈高地のムラと低地のムラ〉
中津平野の中心部における弥生時代前 中期の遺跡に関する調査研究が、以上のような停滞した状況にあるなかで、 犬丸川 流域において注目すべき遺跡の発見があった。中津 三光隣接地域の平野部を一望する丘陵の突端に営まれた森山遺跡がそれである。この遺跡は国道10号のバイパス建設に伴って発掘調査が実施された。丘陵の端部には大小の谷が解析されており、谷と尾根が入り込んだ複雑な地形を呈している。標高60m、水田との比較差は約40mで急峻な傾斜をなしている。しかも尾根の幅は40mほどしかなく、まさに「馬の背」のような狭い尾根上に遺跡は立地している。
このような高所にしか生活の場所がなかったわけではない。森山遺跡から足下に眺める低地に存在する 樋多田遺跡 の存在がそのことを示している。この遺跡も同じくバイパス建設に伴って発見された。犬丸川の自然堤防上に営まれており、弥生時代中期前半から中ごろにかけての 土器 を伴う方形と円形の 住居跡 各1軒を初めとする遺構が出土している。さらに隣接する底湿地には流路跡が出土し、その中から 木製農具 や杭列など水田に関係する遺物も検出されている。発掘の範囲が限られているので、遺跡の全容は不明である。いずれにしろ樋多田遺跡は県北部で発見された数少ない弥生時代中期以前の低地の集落遺跡として貴重である。周囲にはこのように広大な土地があるにもかかわらず、なぜ森山遺跡のような条件の悪い場所に集落を営んだのであろうか。理由としては自然的条件と社会的条件の二つが予想される。前者は犬丸川の 氾濫(はんらん)などによる被害を避けるため、後者は外敵からムラを防衛するためである。しかしあまりにも急峻な地形から判断して、防御的な意味を考える方が妥当であろう。
〈高地性集落とはなにか〉
瀬戸内海沿岸や大阪湾の平野をかこむ見晴らしのきく山々に、弥生時代の中期後半ごろの多数の集落が見られるようになる。これを高地性集落と呼んでいる。同様の遺跡が後期にも出現しており、それが『魏志倭人伝』の「倭国大乱」の記事と符合することから、中期にも日本列島に社会的緊張状況があったと考えられている。つまり、高地性集落は軍事的な城塞のような遺跡と考えられている。犬丸川流域においても、耕地や水利などの獲得をめぐって農業集団間の軍事的緊張があったと想定するならば、水田に面した樋多田遺跡は平時の集落で、丘陵上の森山遺跡は戦乱時の 砦(とりで)や城 塞(さい)的な集落と見なすことができる。次に遺跡の内容について検討してみることにする。
〈縄文時代的な集落景観〉
発掘調査概報(『森山遺跡 大根川遺跡』)によると前期中ごろに小型の 貯蔵穴 や土坑がまず丘陵の先端に出現し、中期中ごろから後半になると丘陵を3分割する2条の溝が掘られ、丘陵中央に墓地、その周辺に住居 貯蔵穴 土坑がつくられたことが明らかである。溝は小さなものであり、小集団を区画するような機能が考えられる。遺物は土器のほか縄文系の石■や 石皿 と呼ばれる木の実などをすり潰す道具とともに、 石包丁 と呼ばれる稲穂の摘み取り具や 太形蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ) などの大陸系 磨製石器 、それに 鉄器 の破片なども数点出土している。大陸系磨製石器と鉄器は 稲作 とともに大陸 半島経由で制作が伝えられたものである。これらは他の遺跡から出土するものと顕著な違いは認められない。異なる点は、平坦部が狭いため住居跡を初めとした遺構が斜面に階段状に造るなどの工夫をしながらも、ムラの中心の最も広い場所が墓地となっていることである。この生と死の世界が一体となった集落景観は縄文時代のものであり、墓地とムラに一定の距離を設けて区別する弥生遺跡の在り方と比較すると、明らかな違いが認められる。墓地は合計16基で、 石蓋土壙墓(せきがいどこうぼ) 1、小児用 甕棺(かめかん)墓 1、 木棺(もっかん) 1、 土壙墓 13より成る。甕棺の時期が中期後半であることから、このころに墓地が形成されたと考えられている。住居跡などの生活遺構の多くも同じころにつくられており、本遺跡における営みのピークが中期後半にあったことがわかる。
縄文的景観をなす高地性集落、なぜこのような特異な集落が出現したのであろうか。森山遺跡についての正確な内容究明は、当地方の弥生時代研究を進めるうえで大きな課題となっている。
[小倉 正五]
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