大分県 ( おおいたけん)

小藩領域の合併

 明治4年(1871)7月14日に断行された 廃藩置県 後、さらなる封建的体制の 払拭(ふっしょく)をめざし、政府は小県の統廃合に着手した。そして、同年11月14日、西海道(九州地方)において、小倉県以下11県が一斉に整備され、豊後国一国(8郡 17町1801村 約43万石の規模)を県域とする大分県が成立した。この府県統合の意義を簡潔に表現したものとして、次の「 県治概略 」の史料を上げることができる。「明治四年辛未十一月十四日ハ即チ西海道諸県ノ廃置ニテ、御一新以来ノ一大変革ナリ、大政ハ概已ニ皇家ニ復帰スト雖モ、全ク封建ノ制ヲ解キ郡県ノ治ニ復スルハ実ニ此日ニ在リト謂ツベシ、当国ハ庁ヲ大分郡府内ニ置キ、名ヅケテ大分県トモ、云ヒ国ノ中央ニ位シ、一国八郡ヲ管ス(後略)」。
〈大分県の名称〉
 この統廃合の過程において、当初豊後国を府内県、豊前国を小倉県とする「 御達案(おたっしあん)」が示されていたが、9月2日には、大蔵 卿(きょう)大久保利通 大蔵大輔井上 馨(かおる)の連名で正院へ提出された、3府73県設置の布告案のなかで「府内県」は「大分県」と名称を変更されていた(「公文録」辛未大蔵省之部府県置全)。この県名制定に関する直接史料はないが、 戊辰(ぼしん)戦争 での態度で命名したという説がある(宮武外骨『府藩県政史』名取書店 1941年)。政府は戊辰戦争時における諸藩の動向を忠勤藩 日和見(ひよりみ)的 曖昧(あいまい)藩 朝敵藩に分類し、忠勤であった大藩地方の県には藩名を残し、日和見的曖昧藩 朝敵藩には郡名や山川の名称を付けたのである。この説を参照し大分県について考えてみると、 譜代藩 の 府内藩 は朝敵藩あるいは日和見的曖昧藩であったため、政府は古来から政治的地理的にも中心的位置を占めていた大分郡の地名を採用し、府内から大分に県名が変えられたものと考えられる。
〈豊前二郡の大分県移管〉
 4年11月14日、大分県成立と同時に、豊前一国を県域とした 小倉県 が設置され、日田(一部) 豊津 千束(ちづか) 中津県を統廃合し、 企救(きく) 田川 京都(みやこ) 仲津 築城(築上) 上毛(築上) 下毛 宇佐の8郡 36万石余(「公文録」辛未大蔵省之部府県廃置全)、2町 774村がその管轄となった。しかし9年に、政府によって二度にわたる全国的な県の統廃合が行われ、4月には10県、8月には14県が廃止された。その政策の対象に小倉県も含まれ、4月18日いったん小倉県は全て福岡県に合併され、さらに4か月後の8月21日には、宇佐 下毛両郡が大分県に編入された。そして、9月6日小倉支庁で豊前国2郡の受け取りが行われ、中津に仮支庁を置いて当分の間両郡の事務を扱うこととなり、豊後8郡(8大区)に、下毛郡(第9大区)宇佐郡(第10大区)の2郡を加え、ここに今日の大分県域が確定したのである。
〈初期の大分県令〉
 大分県が成立した明治4年11月14日、大分県長官には岡山県出身で、旧岡山県権大参事 森下 景端(かげなお) (1824−91)が参事として任命され、翌5年1月18日大分の地に着いた。森下は着任早々精力的に活動を開始し、1月27日には、様々な重要方策を決定した。まず「県治施設着手ノ布達」を行って、当面の県治の方針を示すとともに、旧県の大小参事と会同をもち「将来県治施行ノ目途」を討論し、このなかで新県の治務を、新地方制度の確立まで旧県の機構を利用しつつ本来の目的に向かって段階的に発展させていこうとする方策を打ち出した。また「局中規則」を設定し、庁内の一応の勤務規則を定めたのである。この後、県治は急テンポで進展し、旧県の事務引継ぎ作業は順調に進み、2月14日に旧府内県では新県への引き渡しを終え、3月6日以降、その他旧県からの引き継ぎが行なわれた。こうして、大分県の体制が森下の指導のもとに整えられていった。なお、森下は6年に権令となり、翌7年に県令となった。そして、9年6月7日、健康上の理由で森下県令が辞任したあと、9月4日第2代長官として岡山県出身の 香川真一 (1835−1920)が権令に任命され、11年7月25日県令に昇進した。豊前2郡合併直後に赴任してきた彼は、合理主義的な政治感覚に基づき、新大分県の体制づくりに没頭した。任期中 西南戦争 や コレラ 大流行などの大事件に対処するとともに、11年の大分県民会開設にみられるような進取の政策を推進し、12年10月13日依願免官によって県令を辞した。大分県政は、森下 香川、そして第3代県令の 西村 亮吉(りょうきち) の3代までの間にその基盤が築かれていったのである。
 参考文献 豊田寛三ほか『大分県の百年』
[三重野 誠]

[お]メニューに戻る