大分県庁舎 ( おおいたけんちょうしゃ)

明治・大正・昭和の庁舎

 県行政の中心大分県庁舎は、明治5年(1782)1月の初代県令 森下 景端(かげなお) の赴任以来4度その場所を転じ、現在に至っている。ただし、いずれも旧 府内城 内またはその周辺ばかりであり、大分以外への県都移転運動は一度もおきていない。
〈旧府内県知事宅時代〉
 森下県令が当初仮県庁としたのは、大分郡南勢家町の豪商 幸松平三郎 宅であったが、5年3月1日には旧府内 藩校 の 遊焉(ゆうえん)館 に移転、さらに9月1日旧府内城址の知事宅に移った。以後、大正10年(1921)の庁舎建替を間に挟んで、前後90年間を旧府内城内で過ごすこととなるが、遊焉館から知事宅への移転の理由は、「追々出張所相廃シ、事務多端諸事間挟ニ付、差支ノ 廉不尠(かどすくなからざ)」るためであった。遊焉館あとを授産場にあてるねらいもあった。明らかに旧府内県知事宅と思われる「 広瀬文書 」の中の「大分県庁図」(明治前期か)によると、全体構造はコの字型で、中央西南側が玄関、東側に出納課 庶務課 収税課 租税課 学務課などが並び、北に聴訟課や捕亡方 民事裁判所が配されている。明治後期には、税務 司法関係は分離され、庁外に去った。
〈大正10年落成の新庁舎〉
  第一次世界大戦 中の景気拡大を背景に、「庁舎 狭隘(きょうあい)且つ構造極めて不完全にして、到底時代の要求に 副(そ)ふべくもあらず」として、県庁舎新築の議がおこった。大正10年大分県に順番が回って来る第14回 九州沖縄八県連合共進会 の会場に、その一部を利用する含みもあった。第18代 新妻駒五郎(にいずまこまごろう) 知事 の時代の発起であった。7年の定例県議会での議決を経て、8年5月内堀を埋め立てて 地均(じならし)工事を行い、10月清水組の請負で基礎工事に着手、12月22日定礎式、9年3月本館建築にとりかかり、10年11月26日落成式を迎えた。当初の8 9両年度継続事業の予定が1年のび、工費も33%増えて72万円余となった。敷地総坪数6,272坪余、建物延坪数1,474坪(本館階上568坪余、階下622坪余、地下室233坪および付属家等)。建物は「欧風近世式レンガ及び鉄筋コンクリート造り」2階建で、外部は人造石塗及びセメントモルタル塗、屋根は周囲の老松古松との配合から 青島(チンタオ)製赤瓦とされた。絶対耐火構造 温水式暖房装置 自動水洗式便所等は、当時としては自慢の施設であった。しかし、郡役所廃止で県機構が膨張すると、わずか10年を経ずして増築の設が行われる。戦後の県政機構の急膨張に際しては、東側と南側に大規模な増築が行われた。直撃弾による戦災のほかに、昭和23年(1948)2月9日には、分館約1,300uを焼く火災にも見舞われた。
〈現県庁舎〉
 昭和20年代後半には、県庁舎本館、 県公会堂 転用の 県会議事堂 、戦後建増の分館等、いずれも耐用年限を過ぎて老朽化していた。さらに、 大分都市計画復興土地区画整理事業 の施行により、県庁舎敷地が将来公園となる方向も確定していた。県庁舎は早晩府内城址を出て新築されるところに来ていたのである。しかし、28年度の新庁舎建設の企画は大 水害 と財政難のために実らず、赤字県財政再建の見通しの立った34年度、本格的に動き始めた。建設省九州地方建設局に設計 監督を委託し、35年12月26日着工した。約2年間の工事ののち、37年11月10日落成式が挙行された。すべて鉄筋コンクリート造りであるが、事務棟は地上9階、地下2階のべ床面積22,434.94u、議会棟は3階屋根一部折版構造、のべ床面積4,491.63u、厚生棟も3階で、のべ床面積2,562.87uであった。3棟を合計して建築面積5,706.26u、のべ床面積29,489.44uとなる。総建築費13億3,244円余のうち7億円は県債に依存、国庫支出金は3,800万円余にすぎなかった。その後も、行政需要が増え続ける中、47年には総合庁舎(地下1階、地上9階、のべ床面積12,727.75u)を増築し、目下10階を超える合同庁舎の建設が計画されつつある。
 参考文献 大分県編『県政のあゆみ』 大分県警察本部『大分県警察史』
[末広 利人]

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