大分港 ( おおいたこう)
かんたん港から大型泊地への歩み
〈 港〉
明治13年(1880)、 第二十三国立銀行 の 小林師善 らが発起して、資本金5万円の大分港株式会社を組織し、西大分町(大分市)に小港を築造した。その後暴風などで壊れ多額の費用を出して再築した。大分港ともいい、平素は波静かで、船舶常に 輻奏(ふくそう)し、各地への航路が開けている。しかし西北風が強くなると、舟の係留も困難になるという欠点があった(『大分市史』下巻)。
〈大分港〉
42年12月の通常 県会 で、「大分港築造費ニ対スル国庫補助ヲ其ノ筋ニ申請セラレ度キ義ニコレアリ候」とする建議案が可決された。当時の大分港(かんたん港)が 狭隘(きょうあい)で、船舶及び客貨の乗り降りにも便利が悪く、とくに冬季風波のある時は一段と困難を極めた。この時期、鉄道の大分までの開通が間近で、本県の海陸輸送連絡の設備完成を要することが急務であった。新築港に要する工事費の135万円は、本県の1か年間の歳出を上回る額で県債によっても償還は25年の長期にわたり、県民の負担も大きく4分の1の国庫補助を受けたいという内容で、結局翌年の県会で築造が承認され、44年度に着工、大正4年(1915)に完工した(明治42年『通常会速記録』)。現在の大分港のフェリー発着の棧橋の場所で、工事は港内の 浚渫(しゅんせつ)、防波堤、浮棧橋、物提場など142万円余の経費がかかった(『大分市史』下巻)。
大正10年の『大分県案内』には、本県では貨物輸送を含めて、水運は交通機関の中で重要な役割を果たしているとして、国東半島では高田港 香々地港 竹田津港 守江港を良港としてあげている。別府湾では日出港 そして関西と直結する別府港 大分港があり、豊後水道には佐賀関港 臼杵港 徳浦港 青江港に県南の佐伯港 蒲江港が多くの物資移出入の拠点であった。その他中津 長州 富来 鶴川 伊美 杵築 豊岡 鶴崎 津久見の諸港も地方の要港であった。
大分港は昭和2年(1927)10月、県 市の運動によって、国庫補助を受ける第2種重要港湾に指定された。3年には大分港改修速成会が組織され、4年には港湾協会が改修の促進を建議するなど働きかけた結果、内務省の直轄工事として、7年から16年までの10か年継続工事、総工費195万円(国庫補助95万円、県費50万円、地元負担50万円)で、東側防波堤、3000t級2 艘(そう)をつなぐ岸壁、護岸、浚渫など行い、その土砂を利用して春日浦一帯の埋立てを施行、17年3月に竣工した(『大分市史』下巻)。しかし荷役設備などは戦後に持越され、23年度から港内の浚渫、上屋修理、起重機据え付けなどが行われ、西大分駅からの臨海線鉄道も敷設され、25年3月完成した。現在の西大分泊地になる(『大分県政史』県勢篇 昭和32年)。
〈県下の重要港湾〉
本県の港湾法の適用港湾のうち重要港湾は4港で、 大分臨海工業地帯 の中核となっている工業港としての大分港、国際観光港としての 別府港 、 石灰石 及び セメント の積出し港としての 津久見港 、外材輸入港としての 佐伯港 である。港湾取扱貨物量は、 オイルショック の影響により一時期低迷したが、その後再び増加し、60年には9,212万tに達しており、そのうち重要港湾で8,269万tを取り扱っている。石灰石、フェリー貨物、鉄鉱石、建設資材などが主な物資である。大分港は戦前までは商業港として、戦後は漸次工業港として脚光を浴び、33年から港湾施設の設備を行って来た。この間大分港の海域を 新産業都市 の建設に合わせて、坂ノ市まで拡張、1万5,000t岸壁をはじめ多数の公共ふ頭、臨港道路などが整備されている。西大分泊地、住吉泊地、乙津泊地、鶴崎泊地に、大在公共ふ頭をもつ大分港の取扱貨物量は県全体の5割を占め、鉄鉱石、鉄鋼、石炭、原油など臨海部企業群のものである。今後工業港湾としての機能に加え、東九州及び瀬戸内海における流通拠点港湾としての整備が進められると共に、「 アジアポート構想 」の具体化も検討が始められている。別府港は5万t級の国際観光船が着壁出来る岸壁も完成、東九州における国際観光の基地として整備拡充が図られている。
地方港湾としては県北の地域開発の拠点港として、 中津港 の岸壁、防波堤などの施設を大型化に対応出来るように整備が進められている。 国東港 は 国東半島 の農産物 林産物の積出港として、 守江港 (杵築市)、 臼杵港 などと共に船舶の大型化、貨物取扱量の増大に対応出来る施設の整備を進め、伊美 姫島 佐賀関などの諸港は小型船 溜(だま)りの整備をすすめている(『県政のあゆみ』)。
[吉田 豊治]
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