大分高等商業学校 ( おおいたこうとうしょうぎょうがっこう)
県内唯一の高等教育機関
大正10年(1921)12月9日勅令第456号により大分高等商業学校が設置され、同月22日文部省告示第509号をもつて同校の位置を大分市大字上野に定め、同11年4月から授業を開始する旨公示された。県民待望の唯一の高等教育機関が誕生したのである。これは第一次世界大戦後の 原敬(はらたかし)内閣の高等教育機関拡張計画によって実現したもので、このうちの 第八高等商業学校 が大分に設置されることとなった。当時の 新妻駒五郎(にいづまこまごろう) 県 知事 は、高等学校の誘置運動に失敗した直後の朗報を快諾して、文部省の内示した地元寄付金87万円を承諾した。しかし、「県の実情は共進会の開催その他水害復旧費等県民の負担が重く、87万円全額を寄付することは 頗(すこぶ)る過重であり、ここにおいて関係代議士が協義し、政府と交渉を重ねて87万円の約半額を地元より寄付すること」に変更された(『大分大学経済学部五十年史』財界評論新社 昭和49年)。同8年12月県会に36万円の追加予算を計上し、大分市が11万2,926円相当の敷地を寄付、不足分27万円は県内外の有志の寄付を求めることとした。同10年10月に教室、事務室、生徒控所、宿直室、小使室、寄宿舎、図書閲覧室が竣工。総建坪2,042坪、工費総額は62万3,477円51銭であった。
〈開校〉
第1回入学試験の受験者1,510人、合格者は152人で、うち県出身者は26人、17%であった。入学式は4月24日に行われたが、開校式典は講堂の完成を待って同12年6月6日盛大に挙行された。初代校長 山本裕作 (前長崎高商教授)は「本校は、研究即ち修養を信条として、芸術技能をそなえるとともに、人格ある青年を出すことに尽くしております」と式辞に述べて教育方針とした(前掲書)。事実、前年の5月に大分高等商業学校学友会が結成され、会長は校長、会員は1部以上に附属すべしと定められていた。14部のうち語学部は県内中等学校の語学大会、弁論部も県中等学校連合弁論大会を開催し、競技部は近県中等学校競技大会を開催して、地域と密着した活動を始めている。同14年3月9日第1回卒業式挙行。卒業生108名のうち就職内定者は20名、大学進学者10名内外であった。 昭和恐慌 の前夜で、就職難を迎えていたのである。昭和初期の不況は、学生の左傾化を招き、文部省は「思想国難」を打開するため昭和6年(1931)に学生思想問題調査委員会を設置した。県内でも左翼思想家が検挙されたが、30余人のうち大分高商生が2人含まれていた。同12年は学校創立15周年の記念行事として上野丘会館が建設されているが、一方この年は7月に 日中戦争 が始まっていた。
〈戦時体制の中の大分高商〉
戦争の長期化にともない、政府は東亜新秩序の建設を唱え、興亜教育を強化するために全国の9高商に関係科の設置を決めた。大分高商でも同13年から準備を進め、同15年4月に第二部東亜科を設置して、49名を入学させている。同年7月に成立した第2次 近衛(このえ)内閣は、8月に新体制要綱を発表し、10月には 大政翼賛会 を結成した。このような動きの中で、大分高商は10月に報国団組織準備委員会を設けた。翌16年7月には商事調査部 移民研究会および商品課を統合して、経済研究所を設立した。大分高商では今年度から一年生全員が寮生活を行うようになり、また、宿営軍事講習会が始められている。さらに、この年10月の官報によって、同17年3月卒業生の卒業を4か月繰り上げ、同17年度からは文部省令第81号により卒業が6か月短縮された。同18年1月には専門学校令中改正が公布され、修業年限がさらに6か月短縮されて2年となった。同年3月には「戦時学徒体育訓練実施要綱」、6月には「学徒戦時動員体制要綱」が制定された。とくに後者は学校報国団を隊組織に編成させ、国土防衛および生産、輸送などに組織的な動員体制を確立しようとしたもので、学校報国隊の有事即応体制を期待し強化するものであった。当時の岡部文相は「上級学校は皇軍幹部の養成所」と声明し、陸海軍はそれぞれ陸軍特別操縦見習士官、海軍航空予備学生を募集していた。大分高等商業学校の学生も「決戦下の大空」をめざして応募する者が多く、海軍航空予備学生の募集には卒業見込者の3分の1に当たる98名が志願した。陸軍甲種幹部候補生の合格率も高かった。同年10月には文科系学生の徴兵猶予が停止され、文科系学生の臨時徴兵検査が実施された。大分高商でも同年11月18日に出陣学徒の仮卒業式が挙行されている。そして翌19年4月には官立経済専門学校規程が制定されたのに準じて、 大分経済専門学校 と改称し、東亜科の募集を中止した。3月には 学徒勤労動員 が通年制となり、大分経専も5月から福岡県 熊本県の 軍需工場 と 佐賀関製錬所 へ出動を命ぜられた。学生は「戦時教育令」によって学徒隊に編成され、本土決戦に備えたが、 敗戦 直後の8月21日に戦時教育令が廃止され、同月28日には授業再開の訓令が発せられた。かくて、戦後の激動が続く中で、大分経済専門学校は復活し、昭和24年には 大分大学経済学部 となった。
参考文献 大分県教育委員会『大分県教育百年史』第1 2巻
[小玉 洋美]
[お]メニューに戻る