大分国体 ( おおいたこくたい)
県勢の飛躍台
〈国民体育大会(以下国体という)の成立〉
戦後の国民生活のあらゆる面で最も苦しい時期に、日本体育協会は「わが国の民主化促進と国民の健康 娯楽の振興が、平和民主国家建設に緊要」と断定し、昭和21年(1946)11月に 国体 の開催を決意した。大会は京都を中心に3日間行われたが、以後地方 スポーツ の振興をはかる趣旨から第2回石川、次いで福岡 東京 愛知 広島 東北三県 四国四県 北海道と全国各地を一巡、国民の明朗化 開催地のスポーツ振興に大きな成果をあげながら、国民のスポーツ祭典として年々盛大になっていった。戦前実施されていた明治神宮体育大会は、明治天皇を讃え、神宮祭礼の時機に、外苑競技場で行われた神前競技であったのに対し、国体は大会実施要綱に基づき開催県が企画 運営を主管する民主的大会で、そこでは開催地の夢が描かれ、郷土色豊かな諸々の文化の紹介やスポーツを通じて友情が交わされ、感動のるつぼとなるスポーツ祭典となっている。
〈21番目の開催地〉
国体の開催には、30余種目の競技及び練習施設、2万余の大会参加者の宿泊施設、輸送、交通、通信等の体制を整える必要から、開催地は大都市をもつ都道府県か複数県となっていった。ところが、第13回国体は県民人口で大分より少ない富山県であった。施設も整い、円滑な運営と暖かい接遇のうちに好評を博したうえ、競技成績も良好であった。国体参加の度に県内スポーツ体制の遅れを思い知らされていた総監督 金瀬正次 は「国体の誘致は可能であり、それこそ本県の低位脱出の近道」と確信。県体協会長 岡本忠夫 、副会長 木下哲 に具申。即刻県体協評議員会で国体誘致を議決した。33年12月20日であった。当時県財政は最大の危機に直面し、31年10月、 自主財政 再建計画を策定して実施にふみ出し、 大分鶴崎臨海工業地帯造成計画 を決定し、 農工併進 へ転換するバラ色の紅を描いたばかりであった。この産業構造転換によって一挙に先進県へ飛躍しょうとする試みのまっ只中で、国体を通して強く逞しい積極的な県民性を培うことは、何ものにも勝る刺戟剤であり「国体は県勢飛躍のジャンピングボード」たり得るとして 木下 郁(かおる) 知事 は受け入れた。県議会も34年3月10日、与野党一致で「国体誘致」を議決、直ちに文部大臣、日本体育協会長に決議書を送付して誘致運動にとりかかった。天の時というべきか。円滑のうちに第21回国体開催が37年8月に内定することができた。
〈曲り角の大分団体〉
戦後経済の復興は国体にも反映し、回を重ねるごとに発展 充実を越えて 絢爛(けんらん)豪華 過剰演出の様相さえ呈した。さらに静岡国体で開催県の総合優勝が契機となって対抗意識が強くなり、選手強化に力を入れる余り、優秀選手の奪い合いや開催地間の移動(ジプシー選手の現出)となって批判が噴出するに致った。また施設についても活用や管理に将来展望を欠き、徒らに豪華さを求める傾向さえあり、いきおい国体予算の膨張が 県財政 を圧迫し国体開催の是非論にまで及ぶに至った。大分国体はこうした「国体の曲り角」を演ずることになったのである。
〈大分国体は剛健国体〉
作為的化粧を排し、無駄のない国体でありたい。強く明るく 逞(たくま)しい質実剛健の県風県民性を高揚し、これを伸びゆく県勢に結集する団体でありたい。そのためには120万県民が総参加し、総合的企画に基づいて諸機関団体が相互連携、協力して一体となること、体育団体や選手を育成してスポーツの礎とし、将来展望をもって施設整備に努めること、さらに他県参加者への物心両面から遺憾ない受け入れと本県の特性紹介に配慮することなど、県の将来像構築の構えで諸準備がすすめられた。
〈大会の成果と遺産継承〉
41年9月16日から4日間、夏季大会が、10月23日から6日間秋季大会が県下14市町53会場で開催された。力強い線が一本引かれたと好評を得た大分国体において、県選手団の活躍は素晴らしく二豊路は 湧(わ)き上った。県勢は水泳 剣道 ラグビー 高校野球 クレー射撃 ソフトボール 柔道 馬術 体操 ホッケーの10種目で総合優勝し、天皇杯1位、皇后杯5位の偉業をなし遂げ、成功裡に幕を閉じた。願いこそすれ予期しなかったこの成績に「やればできる」確信が県民の間に植えこまれたことは何より大きかったし、120万県民総参加体制で取り組んだ剛健国体の実現は、県風県民性の新たな自覚ともなった。遺産はさらに県民運動の拡充、継続にも見られた。スポーツ振興気運は体力づくり運動と連動して農山漁村に及び、施設の増設さえみられた。しかしスポーツ水準の高度化は激しく、数年を経たころから再び低速が続いている。
[甲斐 正人]
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