大分君 ( おおいたのきみ)
壬申の乱の功臣大分君恵尺と稚臣
〈大分君と大分国造〉
『 古事記 』、『 日本書紀 』等に見える古代大分の豪族である。『古事記』 神武(じんむ)記に神武天皇の子の 神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祖とする地方豪族として、小子部連、 火君(ひのきみ)、阿蘇君、筑紫三家連等とともにに大分君の名があげられている。『古事記』神武記には、このように地方豪族を皇族の系譜に連ねる記事が多く見られるが、こうした作業が積極的に進められたのは7世紀後半の天武朝であったと見られる。ここで大分君は火君のつぎ阿蘇君の前に記されているから、少なくとも 天武(てんむ)朝のころには、九州の地方豪族として大分君の名が中央にも知られていたことがわかる。また『 旧事紀 』「 国造本紀 」には火国造の項に大分国造と同祖と見える。ここで火国造と同祖というのは、神武記の記事に火君と大分君とが同祖とされていることと無関係ではあるまい。国造制は少なくとも6世紀には施行されていたとされる地方統治体制である。このころ大分地方に大分国造が置かれていて、この 大分国造(おおきだのくにのみやつこ) になったのが大分君一族であった可能性が高い。
〈 壬申(じんしん)の乱と大分君 恵尺(えさか) 稚臣(わかみ)〉
大分君についての最も重要な史料は、『日本書紀』天武即位前紀に登場する 大分君恵尺 と 稚臣 の二人である。この二人は、壬申年(672)年におこった 壬申の乱 にあたって 大海人皇子(おおあまのおうじ) にしたがって大活躍をした。まず恵尺は大海人皇子の側近の 舎人(とねり)として、皇子が大和の吉野で挙兵するにあたり、密命を受けて東奔西走する。当時近江京に残っていた 大津皇子(おおつのおうじ)と 高市皇子(たけちのおうじ)を父大海人皇子に伊勢国で合流させたのは彼の功績であった。一方稚臣は、大津皇子が合流するにあたり、同皇子に従っていた舎人のひとりであった。彼は、この乱の最大の激戦であった瀬田の合戦で、勇猛果敢に先陣をきり味方を勝利に導いた。
〈恵尺 稚臣の行賞〉
この戦いに勝利して天武天皇となった大海人皇子は、大分君恵尺 稚臣の功績に十分に報いている。恵尺は天武天皇4年(675)病に 臥(ふ)し危篤状態となったが、この時天皇は、恵尺に特に親しく詔を贈った。およそ次のような主旨である。<汝恵尺よ、お前は私心を捨てて国のために尽くし、身命を惜しまず先の大乱(壬申の乱)に功績をあげた。私は永くお前を慈愛しようと思う。もしお前が死ぬようなことがあっても、子孫を厚く賞しよう>。時の天皇が一介の舎人のために親しく詔をおくること自体、きわめて珍しいことである。その文面には側近の恵尺に対する、天皇の身分を超えた信愛の情があふれている。恵尺は間もなく死んだが、この時追贈された 外小紫位(とのしょうしのくらい)という位は、律令制度の位にあてれば三位に相当する破格の位であった。大海人皇子の舎人として功績をあげた人物の中では、村国連男依とともに最も高い位を賜わっているのである。大分君稚臣も天武天皇8年(679)に死んでいる。彼も壬申の乱の瀬田の戦いでの功績をもって、外小錦上の位を賜わっている。これも律令制下の五位に相当する位である。
〈大分君の本拠〉
大分君恵尺 稚臣が、わが大分の豪族大分君の一族であったことはまず確かである。古代の 大和王権 のもとでは、地方の豪族が大和王権の秩序に参加すると、その関係の証しとして、一族の子弟を舎人として朝廷に出仕させることが行われていた。恵尺 稚臣の二人もこうして上京したものであろう。この大分君の本拠は、いうまでもなく現在の大分市内にあったと思われる。具体的には、今の大分市 賀来(かく)から南大分にかけての一帯が有力な候補地としてあげられる。この地域には大分平野を代表する 前方後円墳 である 蓬莱山(ほうらいさん)古墳 や 千代丸古墳 、 丑殿(うしどの)古墳 など4〜7世紀にわたる有力な古墳があり、大分国造の本拠というにふさわしいところである。
〈大分君の墓?古宮古墳〉
中でも注目されるのが、大分市三芳の 古宮古墳 である。この古墳は、 石棺(せっかん)式石室 という特異な構造をもつもので、いわゆる古墳時代終末期の古墳として九州でも唯一つのものである。この種の古墳は、7世紀の後半以降、主として大和明日香地方など、限られた地域で限られた階層の人々によって造営されたものである。このような古墳がなぜ大分に造られたかと考えるとき、第一に大分君恵尺 稚臣の名が浮かぶのである。この古墳のある三芳地区は、庄ノ原から上野にのびる台地の北側にあたる。大分君一族を構成する一つの有力な家がこの地域にあった可能性が考えられよう。
なお恵尺 稚臣の華々しい活躍にもかかわらず、その後の大分君一族の消息は明らかでない。律令政府の中枢で活躍した形跡は全くないし、地元での勢力の推移も測りがたい。
[後藤 宗俊]
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