大分放送局 ( おおいたほうそうきょく)

待望のJOIP開局

 大正14年(1925)に始まった ラジオ放送 は、昭和3年(1928)から4年にかけて、東京 大阪 名古屋の各中央放送局の10kW増力、札幌 仙台 広島 熊本に全国放送網の基幹となる放送局を開設して放送機構を拡大した。ラジオは新聞報道に比べて、ニュースの速報性や甲子園の野球放送などの実況も加わり聴取者も増加したが、受信機の受信範囲もせまく、1台100〜200円という高価格であったため、7年の県内加入数は約5,000(全国は約100万)に過ぎなかった。しかし九州では福岡(約3万3,000)、熊本(約1万)に次ぐ長崎とほとんど同数の4位であった(『大分県統計書』)。
〈放送局誘致運動〉
 昭和7年当時、 日本放送協会 では第3次拡張計画の対象となっている九州の新設地を検討していた。これに対し県内では大分 別府の両市が商工会議所を中心に誘致運動を進めていた。大分県は山脈の関係で受信しにくい状況であったので、放送局の設置は強く望まれていたが、両市で争うことはいずれにも決定しなくなる可能性もあり、諸条件から県庁所在地が有利であるとの示唆も関係者からされていた(『 大分新聞 』7年6月18日)。愛媛県でも期成同盟会を結成して誘致を進め、さらに宮崎県も激しい運動を続けた。県民の待望する放送局の設置が決まるまでには、長い道のりが続くがその一部を新聞記事で追って見る。「日本放送協会で来年度の新設放送局を大分 水戸 甲府 富山 鹿児島 福島 松山 姫路に決定」(『大分』7 9 23)、「廿万円位で建てる大分放送局 場所は東部海岸か」(『大分』7 10 7)「大分放送局ついに設置延期 福岡の大無電局に押されて」(『大分』8 6 8)、「来年度大分放送局新設15万9千円の予算で、宮崎から横槍」(『大分』9 9 10)、「大分放送局新設に両市提携猛運動 ラジオ商の奮起を促す」(『大分』9 9 11)、「大分放送局誘致、放送協会理事会に陳情 九州での未設置県は佐賀 大分 沖縄の3県」(『 豊州新報 』12 11 11)そして「大分放送局 愈々(いよいよ)設置に決定、7年間の努力 酬(むく)いらる」(『大分』13 2 4)と朗報がもたらされた。しかし新設は内定したが、敷地問題で難行する。候補地の新川の買収が 九水 ( 九州電力 )の全額寄付で解決した矢先き、某方面の新設地( 海軍航空隊 と考えられる)に電波が影響を来たすとの指令が入り、新川建設は中止となる(『大分』13 4 28)。その後八幡村(大分市)の台地が候補地となり、その下方の大分市 生石(いくし)の買収に目処がつき、ようやく放送局の位置が決まり、正式決定の内報が伝えられた(『大分』13 11 2)。
〈大分放送局開局〉
 昭和14年度日本放送協会は電波網を大拡張することになり新設する放送局を青森 福島 郡山 尾道(おのみち) 防府 松山 那覇 大分 豊原( 樺太(からふと))と発表した(『大分』14 3 19)。生石の敷地は大分市が買収(敷地代は九水が寄付)して、無償提供をするためにやや遅れたが、14年12月9日には建築願が熊本中央放送局より出され、60mのアンテナの鉄塔も建てられることになった(『豊州新報』)。工事も順調に進み、15年8月21日に逓信省より正式許可が下り、放送事項として放送=ニュース 気象通報 時報 経済市況など、教養=講演 講座 学校放送 子どもの時間 幼児の時間など、文芸=音楽 演芸、演劇などが認められ、施設呼出符号としてJOIP、出力500W、波長700キロサイクルが決められた(『豊州』)。「待望の大分放送局、13日から愈々据付工事に着手(『豊州』16 3 14)。県民の長い間の念願がようやく実現した。3月26日試験放送で、「待ちに待った第1声」(『豊州』16 3 28)、5月19日から全国中継の試験を3日間行って最後の調整をすませた(『豊州』16 5 20)。「乗ったぞ電波に、 二豊(にほう)文化の一画期成る」(『大分』16 6 3)。6月2日の開局に当たり 多湖久 大分放送局長は、「戦時体制下、銃後国民生活と不離密接の関係にある電波文化の殿堂として、百万大分県民の久しく待望した吾がJOIP大分放送局は、愈々本日を 卜(ぼく)して 芽出度(めでた)発足した」と喜びを述べている(『大分』16 6 2)。
〈 NHK大分放送局 の歩み〉
 中波ラジオ局として開局した当初、職員数16名、受信契約数6万1,804名、受信料1か月50銭であった。昭和25年4月第2放送開始、34年8月から テレビ放送 が始まった。37年12月1日に大分市東春日町に放送会館が落成し、 教育テレビ の放送も開始された。 カラー放送 は39年10月から始まり、46年10月には全時間カラー化され、47年4月にはローカル番組もカラー化された。また FM放送 も44年3月に開始されるなど、国際化、情報化の中で放送局の役割はますます重くなっている。
[吉田 豊治]

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