大分連隊 ( おおいたれんたい)
郷土部隊の誕生と変遷
〈歩兵第72連隊の創設〉
明治40年(1907)5月1日、大分県臨時 県会 で、 千葉 貞幹(ていかん) 知事 は「政府ガ明治37、8年戦役ノ後ヲ承ケマシテ、軍備ヲ拡張シマスル為ニ、師団ヲ増設スルノ計画ヲセラレマスルヤ、各県ノ人士ハ争ウテ己ノ県下ニ 衛戌(えいじゅ)地ヲ設定セラレンコトヲ希望シ、陸軍省ニ向カツテ、衛戌地設定トソノ収用ノ敷地ヲ寄付スベキ旨ノ請願ヲ致シマシテゴザイマス」と、明治40年度大分県歳出追加臨時財産費51,837円26銭5厘(土地買入費及び水路付替費)を提案した。陸軍は 日露戦争 中に増設した4野戦師団をそのまま常備兵力とした上、さらに40年10月に近衛師団と18師団を新設した。この増設に関連して各地で激しい誘致運動が起こり、大分県も連隊設置と敷地の寄付を陸軍省に請願した。これに対し、陸軍大臣より敷地12万3千余坪(約40万6,638u)の寄付が命ぜられた。代金にして15万円以上の巨額の土地代を県民が負担することは、到底不可能であったが、交渉の結果4万3,500坪の敷地の寄付ですむことになり、知事は議会へ提案した。「 抑(そもそ)モ連隊ヲ本県ニ置カレマスコトハ、本県ニ取リマシテ多大ナル公益ト信ジマス。即チ本県ノ子弟ハ従来他県ニ出テ兵役ニ就イテ居リマシタモノガ、本県内ニ於テ兵役ニ就クコトニナリマシタ。ソノ父兄モ 亦(また)遠ク他県ニ出テ存問シタモノガ、県内ニ於テシバシバ存問スルコトガ出来ル訳デゴザイマスカラ」と、これまで熊本や小倉の地に入営していた不便さが解消できることをあげ、さらに連隊設置によって年間約40万円の金額が県下に落とされると経済効果も強調した。しかし県会では直接恩恵に浴する大分町や大分郡に多額の寄付をさせるべきなどの不満も出て難行し、調査委員会を設けて意見の調整がなされ、 漸(ことごと)く可決した(明治40年『大分県臨時県会速記録』)。40年9月18日、軍令陸第3号で陸軍管区表、第4号で陸軍常備団隊配備表が改定された。これに伴って第12師団(小倉)第12旅団に 歩兵第47連隊 の外に 歩兵第72連隊 が創設され、大分設置が決定した。同時に 47連隊 に 中津連隊区司令部 (東国東 西国東 速見 宇佐 玖珠 下毛 日田の各郡と福岡県築上 京都(みやこ)郡)、 72連隊 に大分連隊区司令部(北海部 南海部 大分 大野 直入の各郡と宮崎県東臼杵 西臼杵郡)が設置された(『戦史叢書 陸軍軍戦備』朝雲出版社 昭和54年)。歩兵第72連隊は大分の新兵舎が完成するまで、小倉の14連隊(城内)と47連隊( 北方(きたがた))に分駐し、同年12月1日6個中隊900人を入営させて発足、初代連隊長に 山崎万吉 歩兵大佐が決まり、連隊旗も41年5月8日授与された。大分町の西郊 駄原(だのはる)に建築中の兵営は同年7月に完成、同月15日小倉を出発、17日に新しい兵営に移駐し、12月1日には900名の新兵を迎えて3個大隊12中隊の大分連隊が発足した。歩兵第72連隊は大正7年(1918)8月27日 シベリア へ出兵、8年2月25日から26日にかけて厳冬の ユフタ で 田中勝輔 大隊長以下の全滅を含めて戦病死者394名を出して同年7月3日大分へ帰還した。
〈歩兵第47連隊の移駐〉
大正14年陸相宇垣一成によって4個師団、すなわち旅団司令部、歩兵連隊16が廃止された。 第一次世界大戦 後11年ワシントン海軍軍縮会議が調印されたが、陸軍の軍備整理も11年、12年についで14年にも行われた。「歩兵第47連隊は大分に移転し、歩兵第72連隊を廃止す」と発表された。廃師と関連して大異動が行われ、久留米に廃止された18師団に代わり、小倉から12師団司令部が移転、中津連隊区司令部も廃止された。47連隊は熊本の第6師団 第11旅団の管轄になり、日田郡が久留米連隊区(48連隊)の管轄になった以外は、大分連隊区の管轄になり、実質的な 郷土部隊 としての47連隊が誕生した。しかし大分市民の72連隊に寄せる愛着は非常に強く、4月26日の『 大分新聞 』は「72連隊名残の 招魂(しょうこん)祭―第1日逝く春を惜んで踊り狂う5万市民」というタイトルで記事を載せている。22日から新連隊への兵器引き継ぎの作業が進められ、4月30日連隊最後の日で、軍旗が大分駅から奉還のため出発した。そして同年5月4日小倉北方を出発した47連隊が 佐藤信亮 連隊長に率いられて、正午前に大分駅に到着、市中を行進して72連隊跡に入った。この連隊はやがて 山東出兵 満州事変 から 日中戦争 へ出兵、そのまま 太平洋戦争 で南方へ転進して終戦を迎える。
〈大分少年飛行兵学校〉
昭和18年(1943)6月24日西部第69部隊が、 都城(みやこのじょう)西部第23部隊に編合移転し、郷土部隊が去って行った。その兵舎で同年10月28日、 東京陸軍少年飛行兵学校大分教育隊 が開校した。同校は19年6月15日に 大分陸軍少年飛行兵学校 として分離独立し、東京、大津と共に14、5歳の少年兵の厳しい訓練が、終戦まで続けられた。
参考文献 平松鷹史『郷土部隊奮戦史』
[吉田 豊治]
[お]メニューに戻る