大内輝弘 ( おおうちてるひろ)
大内一族最後の武将
?−1569 戦国時代後期の武将。 高弘(たかひろ) の子。「 大内氏系図 」は 政弘(まさひろ) の三男とし、「高弘 左衛門尉 大内太郎 尊光 輝弘」と、高弘の別名としている。
〈輝弘と高弘は異人物〉
「 吉川家旧記(きっかわきゅうき) 」等には、大内氏氏寺氷上山興隆寺に入ってのち、同寺別当となり 大護院尊光(だいごいんそんこう)を名乗り、周防国 目代(もくだい)等を兼帯、ついで還俗して高弘と名乗った。当時の守護 大内 義隆(よしたか) と不和になって都に上り、将軍 足利 義輝(よしてる) に謁して 諱(いみな)の字を賜わって輝弘と改めた。その後出雲に下り、さらに豊後に赴いた、とある。史料によってみると、尊光の名は延徳3年(1491)にはすでにみえるし、『 大友家文書録 』は高弘について、「高弘は大内政弘の子、義興の兄なり。初め防州にあり。僧となる。名は尊光という。氷上山別当となり、大護院と号す。義興と相悪しく出奔。豊後に来り親治父子に依る。有年にして還俗し大内太郎高弘と号す」と述べ、明応9年(1500)の関係史料を収録している。史料は、将軍職をめぐる 義材(よしき) ( 義尹(よしただ) 義稙(よしたね))と 義澄(よしずみ) ( 義遐(よしとお) 義高(よしたか))の対立にかかわるもので、 大内 義興(よしおき) を頼った義材追討を義澄が 大友 親治(ちかはる) を通じて高弘に命じたものである。輝弘と同一人物とすれば、輝弘の没年永禄12年(1569)まで、延徳3年から78年、明応9年から69年ということになり、年齢的ににも不合理である。別人とするのが妥当である。
〈輝弘の没年齢〉
輝弘と高弘(尊光)を同一人物とすれば、輝弘の没年齢は90歳前後となる。『大友家文書録』は、「輝弘は故大内高弘の子なり。久しく豊後にあり。宗麟の 眷遇(けんぐう)により此に至る」と、両名は親子関係にあるとしている。輝弘の没年齢についても、「 到津(いとうづ)文書 」永禄12年某覚書は「10月11日大内輝弘渡海、正年51歳」とし、『 フロイス日本史 』第31章に「(豊後国主)は山口の国主に輝弘を挙用し、彼を同国主と宣言した。(輝弘は) コメス デ トルレス 師が(山口)にいた時殺された真実の山口国主大内(義隆)殿の血族の甥であった。(前)国主が亡くなったために(国を)追われていた人々は、皆、(輝弘)のところに行き、今や彼をして山口の諸国を領有せしめようと決心した。彼は50歳で、かなり我らの聖なる信仰のことを教わっていた」と、輝弘の出自 年齢に触れている。以上のことから、輝弘と高弘は別人であることは確実で、宇佐郡士吉村弥六左衛門入道あて輝弘書状に「高弘に召仕えらる筋目の条、その継きをもって家人たるべきものなり」とあることから親子であったことは確実であろう。
〈輝弘の寄留地〉
輝弘と豊後との関係は、「 大友興廃記 」によると、「去、天文12年癸卯5月7日の日、長門国に於て周防大内義隆を、 陶(すえ)、内藤両人をしかけ切腹させ奉りし時、一門大内太郎左衛門輝弘、子息武弘父子は死をのがれ豊後国に渡海あり」と、天文20年(1551)からとしている。なお、義隆自刃は9月1日が正しい。また、『大友家文書録』も「久しく豊後にあり」と述べ、『 歴代鎮西要略(れきだいちんぜいようりゃく) 』も「今は放浪の客として豊後にあり」と述べる。しかし現存する史料によってみると、輝弘の家人となっているのは宇佐郡士 吉村氏 恵良(えら)氏 、下毛郡士 屋形(やかた)氏 、上毛郡士 緒方氏 松永氏 等豊前国の者たちであることからすれば、輝弘の寄留地は豊前国であった可能性が高い。また、家人を召し抱えるには当然 知行地(ちぎょうち)を与えることになるが、現存史料からはその確認はできない。ただ、永禄11年(1568)10月 屋方兼諸 に 宛行(あておこな)っている周防国 吉敷(よしき)郡内と長門国豊田郡内の地、同12年 緒方 鎮盛(しげもり) に宛行っている長門国豊田郡 大津郡 美禰(みね)郡内の地、あるいは安芸国内の地などは全て空手形であることは間違いない。この知行宛行いも領国復旧という前程のものと考えられる。
〈輝弘の渡海と 終焉(しゅうえん)〉
永禄12年5月、 毛利 元就(もとなり) は 吉川元春(きっかわもとはる) 小早川隆景(こばやかわたかかげ) らをして、 大友 宗麟(そうりん) の武将 立花 親続(ちかつぐ) を筑前国 立花城 に攻めた。宗麟より出陣を要請された輝弘は、5月13日緒方鎮盛に対し、人数を集め渡海できるよう命じている。宗麟は、毛利勢を 牽制(けんせい)するためか、8月には 大友水軍 若林 鎮興(しげおき) をして防州 合尾浦(あいぼ)(秋穂浦)を衝いている。10月、宗麟は輝弘を将として兵を与え、若林鎮興を船監として海路長門に上陸させ、周防の元就を攻めさせた。このことについて アルメイダ も、「王は多数の兵を集めて艦隊を整え、敵の不在に乗じて正統の君(輝弘)をその地に入らしめ」たと報告している。輝弘も渡海に当たり恩賞を諸士に約束している。10日秋穂浦に上陸した輝弘は、12日には元大内氏の別邸築山屋形に入るが、元春 隆景らが帰国すると聞き山口を脱走して富海の茶臼山(防府市)に入るが、進退に窮して自刃した。これにより大内氏の血統が絶えたことになる。
参考文献 三坂圭治『山口県の歴史』 渡辺澄夫『大分県の歴史』
[橋本 操六]
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