大内晴英 ( おおうちはるふさ)
大内義隆から離縁された晴英
?−1557 戦国時代後期の武将。 大友 義鑑(よしあき) の次男。母は 坊城(ぼうじょう)氏(『 寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょしょかふ) 』「 大友氏系譜 」「群書類従本藤姓 大友系図 」「 常楽寺蔵大友系図 」「 入江文書田原系図 」)または 大内 義興(よしおき) の娘(「豊州雑誌本 大友系譜 」)とする。幼名塩乙丸。通称八郎。天文9年(1540)将軍 足利 義晴(よしはる) より 偏諱(へんき)を賜い晴英を名乗り、 相伴(しょうばん)衆となる。 大内 義隆(よしたか) の跡を受け、周防介 大内介と称す。のち左京大夫に任ず。従五位下。天文23年春ごろ将軍 足利 義輝(よしてる) より 諱(いみな)字を賜わり 義長(よしなが)と改名。弘治3年(1557)自刃。
〈晴英の離縁と義隆の自刃〉
中国の雄大内義隆は、嗣子が出生しなければ嗣子とするとして将軍義晴の許可を得て晴英を 猶子(ゆうし)に迎え、大内新介晴英と名乗らせた。ところが、天文14年義隆の後室 小槻(おづき)氏との間に嫡男 義尊(よしたか) が出生したため、離縁された。文事にいそしむ義隆の生活態度は、 陶隆房(すえたかふさ) を中心とする武断派と 相良武任(さがらたけとう) ら文治派とのあつれきが生じ、武断派は義隆から疎んじられるようになる。陶隆房は今八幡宮に参詣する義隆を襲撃しようと企てたが露見し、所領の周防国富田に退いた。天文20年5月、陶隆房は使を 大友 義鎮(よししげ) に遣わして、晴英を大内家に迎えたいと申し入れた。義鎮はこの提案に応じたという。『 フロイス日本史 』も「国主大内殿の家臣であり、山口のきわめて身分の高い殿両名は、豊後(国)と結託して、密かに(大内殿を)殺害して、豊後国主の弟の八郎殿なる人物を(周防)国主に就任させようと欲した」と述べている。天文20年8月、大友氏の使臣を迎えての歓迎の能が築山 館(やかた)で開かれていた時、隆房が不意に襲って来た。義隆は難を法泉寺にさけ、ついで長門国に逃げ、仙崎から石見国に逃れようとしたが波浪高く、引き返して深川の 大寧寺(だいねいじ)に入り9月1日嫡子義尊と共に自殺して果てた。
〈晴英の大内家督襲封〉
大内義隆を襲い自殺させた陶隆房は、世の批判をかわすため、将軍足利義輝の下知を仰いで晴英を家督に迎えることにした。兄義鎮は反対するが、晴英は乱国の大将となるのは武門の面目であるとして応諾したという。天文21年12月27日、隆房、杉 隆相(たかすけ)、飯田 興永(おきなが)は 竹田津浦 に着岸、翌22年正月5日府中に入り、16日対面の儀が行われた。出立に当たって義鎮は 橋爪(はしづめ)美濃守 と 吉弘左衛門大夫 を随行させている。橋爪氏は後に義長の 加判衆(かばんしゅう) として名をみせる。陶隆房は晴英の諱字を得て 晴賢(はるかた) と改めた。晴英主従は、大内氏祖 琳聖(りんしょう)太子来朝の故事にならい、天文21年3月2日乗船、防府多々良浜に着船後、3日(4日とも)には屋形に入ったとも、大内屋形を号し築山第に入ったともいう。しかし、3月1日付けで熊谷兵庫頭 信直(のぶなお)にあてた晴賢書状によると、2月26日の着国とあり、 野史(やし)は信用しがたい。入国後の晴英は、 毛利 元就 (もとなり) 毛利 隆元(たかもと) に安芸国佐東郡内所々を 安堵(あんど)したのをはじめ、合戦の 手負注文(ておいちゅうもん)等に 証判(しょうはん)を与えるなど、家督としての権限を行使している。また、豊前 筑前の寺社についても 大内 政弘(まさひろ) 義興 義隆歴代の証判に任せて安堵している。天文21年8月28日は、 トルレス と フェルナンデス 両宣教師の申請した教会大道寺の建築を許可している。これら義長名で発給される 宛行(あておこない)状 裁許状あるいは加判衆連署 奉書(ほうしょ)等には、 袖判(そではん)をすえる大内家の書式を踏襲している。
〈大内義長の 終焉(しゅうえん)〉
天文22年4月、義長は毛利元就等に命じて出雲の 尼子晴久(あまこはるひさ) を撃たせているが、翌年になると元就との対立が顕著となる。すなわち、翌23年 吉見 正頼(まさより) が叛し石見国 三本松城 に拠った時、義長は晴賢と共にこれを攻略するが、元就は二宮隠岐守らを救援に向けたのである。正頼離叛の理由は、晴賢の大内義隆 弑逆(しいぎゃく)にあったが、23年12月抗し得ず、亀王丸を人質に出して和を願い出た。弘治元年、晴賢入道 全薑(ぜんきょう)は義長の命により、元就の属城 厳島(いつくしま)を攻めた。元就は直ちに嫡子隆元、 小早川隆景(こばやかわたかかげ) 吉川元春(きっかわもとはる) らを率いて救援に赴き、10月1日全薑を敗走 自刃させた。11月、元就を撃とうとして許されず若山城に據った全薑の子 長房(ながふさ) を陶氏に旧怨のある 杉 重政(しげまさ) の子七郎が攻め殺すという事件が起こった。さらに翌2年3月には大内氏旧臣 内藤 隆世(たかよ) が陶氏の旧臣の願いにより 杉七郎 を襲い火を放ったことから、山口は 灰燼(はいじん)に帰した。八幡山に難を避けた義長は、杉 内藤両氏を和解させたが、4月に至って内藤氏が和を破り、杉兄弟を攻め殺すなど内紛がおこっている。この時、山口の会堂も兵火にかかり、宣教師トルレス等は豊後 府内 に移った。弘治3年2月、元就の襲撃を耳にした義長は内藤隆世らを率い長門 勝山城 に入る。元就に攻められた隆世は、自刃と引きかえに義長の助命を願って果てた。長福寺に入った義長は、攻撃勢の 福原 貞俊(さだとし) から自刃を求められた。義長は福原に誘われたため隆世と共に死ねなかったのが悔まれるとして、4月3日 沐浴(もくよく)の上自刃して果てた。
参考文献 渡辺澄夫『大分県の歴史』 三坂圭治『山口県の歴史』
[橋本 操六]
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