大神氏 ( おおがし)

諸説の多い氏族

 本来はオオミワと読むべきだが、九州ではオオカミと読むのがオオガと読まれてきたという。宇佐大神氏は官社八幡宮を 創祀(そうし)した 大神比義(おおがのひぎ) を祖とする。創祀の時は 祝(はふり)、 主神(かんつかさ)であったが、奈良時代末に 禰宜(ねぎ)、祝、 大宮司(だいぐうじ) を出しこれが続いた。平安初期には禰宜 大宮司を独占し、末期には 宇佐氏 に大宮司を譲り、これが近世まで続いた。
〈筑紫の大神氏〉
 宇佐大神氏について大田亮は大和大神との関係は 詳(つまびら)かでない、豊国の大神部の後か、別姓で古くから 宇佐宮 に関係ありオホカミといったものかなどといっている。さて 大神(おおみわ)氏は大和国に興り 大神(おおみわ)神社 を 祀(まつ)る氏族で全国的に勢力をのばした。『 和名抄(わみょうしょう) 』によると、大神郷などは畿内3、東海2、山陽1、西海道2か所があり、畿内以西で瀬戸内に接した所が多い。西海道は筑後 山門(やまと)郡と豊後速見郡に 大神郷 がある。大宝戸籍によると筑前嶋郡川辺里に「戸主大神部荒人」戸口に大神部10人、他の戸主の中に1名があり、豊前仲津郡丁里に「母大神部牧売」と「大神菟手」がみえる。豊後は不明であるが、大神郷のない筑前豊前にみえるので九州全体ではもっとあったにちがいない。豊前国では宝亀8年(777) 京都(みやこ)郡の渡来系 田勝(しもとだのすぐり)愛比に大神朝臣を賜わり、仁和3年(887)3月 大神 良臣(よしおみ) の事で「 大神 田朝臣 」は「大神引田朝臣」「同真神田朝臣」等と同祖になっているし、宇佐大神は天平勝宝元年(749)に 大神 杜女(もりめ) 、同 田麻呂(たまろ)に大神朝臣を賜わっている。これらをみると、宇佐大神について重松明久は大神 田朝臣と同系だという。
〈神功応神信仰と大神比義〉
 宇佐の固有信仰は 馬城峯(まきみね) を巡る ウサツヒコ 、 ウサツヒメ によるシヤマニズム文化であったが、この聖地に道教的韓国シヤマニズムをもちこんだのが 辛嶋勝(からしまのすぐり) 一族であり、これが宇佐氏の文化と融合したのが 小倉山(おぐらやま) の 北辰(ほくしん)社 であったらしい。 神功応神(じんぐうおうじん)神話については筑前 怡土(いと)の鎮懐石八幡の懐胎神話、同 那珂宇美(なかうみ)八幡の生誕神話、同穂浪 大分(だいぶ)八幡の解散神話等など筑前海岸を中心に神功応神信仰があった。古風土記は完本5、逸文23篇中、神功応神をとりあげた。風土記は13篇、その中筑前国6篇、筑後 肥前 日向各1篇づつ、九州外では 播磨(はりま) 紀伊 土佐等に瀬戸内関係がみられる。つまり対韓の国防問題の起こる欽明朝ころ突如神功応神信仰は筑前海岸に起こった。これは神功が国防のため筑後国大神郷に大神神を勧請した故事につながっていたので、大神氏と神功応神信仰の結びつきは強かった。豊前宇佐は 大宰府 創設までは大和朝廷の九州基地であり、 辛嶋氏 の文化で道仏的宗教文化の中心地であった。ここに、筑前の神功応神信仰を大和大神氏を背後にもつ大神比義が持ちこんだ。始め辛嶋氏と結んで 漸(ようや)く和銅5年(712)官社八幡宮を成立させた。社地を次々と移転させながらながら遂に宇佐氏の聖地小倉山に入り宇佐神と合体したとみてよかろう。このようにみると大神比義は僧 法蓮(ほうれん) とほぼ同時代の人物とみて大過あるまい。鎌倉時代の 神吽(じんうん) は「 託宣集(たくせんしゅう) 」に応神信仰発生の時とこの神を官社にした比義の時代を重ね合わせ、比義を日本道教の開祖仙人のように画き、現在も比義は宇佐神宮下宮一殿に祀られている。
〈高宮系図と宇佐大神氏〉
 筆者も始め大和の「高宮系図」に大神比義がみえるのでこれを採用していた時があった。「高宮系図」には比義を巡り、欽明29年 菱形(ひしがた)山 に八幡と神功を奉斎とか、男性に「宇佐神宮禰宜」などの記載があるが、いずれも古代には全くない語で、この系図の 編纂(へんさん)はきわめて新しい時代の作か加筆である(『大美和』第76号)。
〈祝大宮司家と装束所検校家〉
 比義の子 春麻呂 は霊亀2年(716)の託宣で 小山田社 に移座、春麻呂二男 諸男 は養老4年(720)初めて御験を調進、神輿は大隅へ向かい、長男田麻呂、杜女には「大神朝臣」を賜わり、始めて「主神司 禰宜」に任ぜられた。これからは祝 大宮司 禰宜は大神氏が就任することが多くなる。宝亀8年(821)始めて大神 宇佐二氏の詮擬があり、延喜2年(902)始めて 宇佐夏泉 が大宮司となった。以後大神宇佐氏が時々は大宮司になったが、祝 禰宜(女)は辛嶋氏を廃除してして大神氏が独占した。一方 種麻呂 の子 家弘 の孫 弘宗 より 小山田社司 装束所 検校(けんぎょう)家が独立した。
〈大神氏の衰退〉
 祝大宮司大神氏は摂関制が始まると共に衰え始め、宇佐氏が優勢になる。天喜元年(1053) 宇佐 公則(きみのり) 以来大宮司は宇佐氏に独占された。大神氏は大きく転換する。大神氏豊後への敗退説は渡辺澄夫説に始まるが、そのころ緒方荘に大神惟基が現れ、その子たちが優勢となっていく。古代末から中世初にかけて宇佐社家の移動がみられるが、支配下 荘園 への進出は日向の田部土持氏、筑前の宇佐益永氏、肥前の大神氏、豊後大野郡の 益永氏 、 宮成氏 等など例がそれであった。豊後大神氏は宇佐宮祝大神氏の一部が進出したのではないかという仮説を「推定」として書いたことがある。ところが「推定」を「断定」と読み違える人もあった。今後の研究課題の一つであろう。
 参考文献 中野幡能『八幡信仰史の研究』 同『八幡信仰』 『日出町誌』
[中野 幡能]

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