大蔵氏 ( おおくらし)

伝説のベールをぬぎすてる日田の開発領主

 平安末期から戦国時代にかけて、日田地域を支配していた在地領主の一族。代々日田郡の郡司職をうけつぎ、鎌倉時代には 日田荘 の地頭をつとめた。
 中世の社会で、各地域に住む人々の生産活動を指導し、住民から税を徴収し支配したのは、一般に 武士 といわれる武装した在地領主の一族であった。かれらは史料的には開発領主 根本領主などとよばれ、 郡司 や 郷司 など律令国家以来の公的な役職、または荘園の 下司(げす) 公文(くもん) など準公職について、住民の支配を公認されていた。 日田大蔵氏 が郡司職を世襲するのは、公的に支配を認められた一族であることを、確認し宣伝する意味があった。
〈大蔵氏の登場〉
 日田大蔵氏が歴史の舞台に登場するのは、長元9(1036)年に 日下部為行(くさかべためゆき) が 田島 別符(べっぷ) などを開発しようとした時、随近刀祢大領大蔵氏が証人になったという『 宇佐宮御神領大鏡 』の記事である。ついで永承3(1048)年大領 大蔵千員 が、為行の死後遺族がその土地を相続することを認めた 国司 の許可書をとりつぎ、さらに天喜2(1054)年、日下部氏が 大宰府 にこの別符を寄進したのち、散位 大蔵朝臣 永明(ながあき) がここでとれた桑を大宰府に納める責任者となっていたと記されている。したがって、武士たちの政治的 経済的拠点となる所領が形成されはじめる11世紀のなかごろには、大蔵氏が日田郡の有力な豪族としての地位を築いていたことがわかる。しかし、千員や永明の名は、日田大蔵氏の系図には見えず、当時の大蔵氏の当主は、 永弘(ながひろ) であったとされている。このように史料と系図がつながらないことが、大蔵氏についてさまざまな意見が生まれる原因となっている。
〈大蔵氏の祖先をめぐって〉
 在地領主の生まれてくる過程や、その系譜は一般に不明な場合が多い。そこで、のちの時代の人々が、その祖先を歴史上有名な人物や天皇家につなげて、いろいろな解釈をすることになる。たとえば『 豊後国志 』は、永明が9世紀に豊後の国司であった 中井王(なかいのおう) の子であるとしている。しかし、それぞれの生きた年代を考えれば、この説がなりたたないことは明らかである。そこで次に考えられるのは、九州の有力武士団である 原田氏 などの祖先とされる 大蔵春実 やその孫 種材 などの子孫という意見である。しかしこの意見にたいしても、「種」を通字とする原田氏などと違って日田大蔵氏が「永」を通字としていることや、 大原八幡宮 の創建など地域の所伝が多いことなどから、これを疑問とする説もだされている。日田大蔵氏の史料上の初見が、「随近刀祢大領」という地方官人であることも、府官大蔵氏との系譜上のつながりに疑問を持たせているようである。
〈見え隠れする大宰府の影〉
 日田大蔵氏の先祖については、日田の有力農民から成長した武士と考える立場がやや有力ながら、いまだ明確ではないというのが現在の研究段階であるといえよう。しかし、武士は、暴力を独占する国家機構ないしは 国衙(こくが) などの軍事的部門を担当する一族や、その周囲からうまれるとする最近の中世史研究の成果を考えると、大宰府の役人として軍事的な分野で活躍していた大宰府大蔵氏との関係も無視しがたい。永明が、朝臣という姓をもち、田島別府などの桑を大宰府に納めていたこと、『日田郡司職次第』によれば、永弘の子 永季(ながすえ) が、たびたび朝廷で相撲をとったということなどからは、日田大蔵氏の背後に、大宰府役人の影が色濃く浮かんでくるのである。当時の貴族の日記などによれば、朝廷から左右近衛府の役人たちが、九州に派遣され、大宰府の役人から相撲人が選出されていたのである。また 永平(ながひら) が朝廷の左近衛府と関係があったことも、在地勢力出身説では、説明が難しくなるのである。
〈一族抗争の悲劇をこえて〉
 『日田郡司職次第』によれば、永季のあと、日田大蔵一族内部で抗争が生じている。それは永季の子、 宗季(むねすえ) が弟 季平(すえひら) に殺害されたことからはじまった。その季平は、久安4(1146)年弟永平を養子とし 日田郡司職 を譲ったが、永平は、保元2(1157)年に婿 三牟田盛季(みむたもりすえ) の夜討ちをうけて死亡、永平の子 永宗(ながむね) は、母方の叔父 緒方 惟栄(これよし) のもとに身を潜めたという。そこで、宗季の子 季守(すえもり) が盛季を討ち、自分こそ本来の嫡流と称して、日田郡司職を 押領(おうりょう)しようとしたため、季平の郎従たちが季守を保元3年に 誅戮(ちゅうりく)し、大蔵氏重代の郎従である高瀬 井垣の両氏が緒方に出向き、永宗を迎え抗争がおわったというのである。この抗争は、「季」を通字とする勢力と、「永」を通字とする勢力の抗争のようにも考えられるが、それは分立しはじめた日田大蔵一族が、結集をめざして、伝説の霧の彼方から、「武者の世」の大武士団へうまれかわる陣痛であったのだろうか。
[西別府 元日]

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